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本当に教育をしているのか
■はじめに
 大学にきて6年間、思うところがあって来年度でやめる。おそらくこのレポートが最後のレポートになろう。表に見る通り、私の授業評価は履修者が200名近くいる授業としては相当に高いものと自負している。これも「参加性」を高める授業を工夫してきた成果である。「最後」の授業評価を「参加性」という視点で書きたい。

   


■大学教育では「考える力」が最も重要
 大学で何を学ぶべきか。教養でもないし技能でもない。教養や技能の獲得は単に手段である。その手段を通じて「考えるぬく力」を養い「問題解決」できるような人間になることである。私はフランス文学のアルフォンス・ドーデが好きだがそれは単に「教養の消費」として好きなだけだ。大学で学ぶ意義は、当時の南仏の社会環境のもとで、社会と人がどう関わっているか、その関わり方、人の生き方に現時の課題を解決する糸口がないか考え抜くことである。一方的に話を聞いても「考え抜く力」はつかない。
■授業は思考道場であるべき
 学生に板書を写させ、記憶させて、試験ではき出させることは教育ではない。90分間、とにかく考えさせる事である。一人で机に向かっていても考えが深まらないから、隣の人間と話し、皆の前で発言し、「考える」を協同させるのである。授業は「思考道場」である。
 以前他人の試験監督をやってみて驚いたが、指定教科書だけを「持ち込み自由」で、問題は、教科書の該当箇所を書かせるものであった。こんなのは断じて教育ではない。私は教育した領域について「考える力」があるか、「問題解決ができるか」を試すので、当然「持ち込み自由」にする。
 この「学生による授業評価」が、本来あるべき「考える力」の養成機関としての評価が分かるように設計されているとは思えない。
■「大学生活」で呆れたのは一部の学生の私語、それへの大学の対応
 海外の経営大学院で学んだ体験、実にカジュアルだが知と議論の空間、だから当然私語もある。もちろん私語はすべて授業内容について隣の学生とディスカッションすることである。
 残念ながら本学では一部の学生が「恋バナ」や「テレビ番組やタレント話」に熱中する。これをやめさせるためにずいぶん苦労した。「静かにしろ」と怒鳴る、近くにいって詰問する、注意が重なる学生は退出させる、授業を途中で打ち切ったこともあった。ほとんど改善は見られない。その中でもっとも効果的なのは指定席にして、少なくとも同一学科の学生は隣に座らせないことである。大学もそれを考えている。
■静かにしていれば良いのか?
 しかしそれこそ本来あるべき授業の本旨とは反する。自由に発話しようというカジュアルな空気が教室内から全くなくなり、確かに教室は静まりかえる。それと同時に学生の熱気が下がり精神的なボルテージが落ちる。この段階で授業が本来持つべき「参加性」は失われる。授業で挙手で発言する学生が激減する。静まりかえり、仲間と隔絶された空間で、一方的に教員が得々と、難しい話をするという教育スタイルは明治時代のものだ。
 授業のスタイルを変えること、教室や設備をこれからの授業スタイルに合わせて、新しい授業開発をしないと大学教育は近々崩壊するだろう。
■最後のことば 「切磋琢磨」の気を 
 就職活動で東京に行った学生が必ず言うこと、それは「東京の学生は顔つきが違う、目の色が違う、必死になって就職活動をしている」である。名古屋という地は、幸い安定し豊かで住みやすい街である。人と争い合うこともなく学生もあくせくしないですむ。そのせいか「切磋琢磨」の空気がない。本学だけでなくこの地区全体の学生気質である。元来、人間は適度な緊張感があるから成長する。知的にもっとも成長するステージで、「切磋琢磨の気」が不足していることは根源的な欠陥である。私のゼミでは毎年東京の某大学のゼミと、日本を代表する企業に対してプレゼンテーションを行ってきた。その大学のゼミ生は優秀だという以前に、ゼミ内で切磋琢磨していて、男女ともたくましい。こういう他流試合の経験のない学生は「ひ弱」だ。私が大学に残す「ことば」は「切磋琢磨する風土をつくる」である。
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